日本人の名前は実に多彩だ。
キラキラネームなどと騒がれて久しいが、個人的にはどんな名前をつけようが親の勝手だと思って揺るがない。
が、確かに今もし小学生なら友達の名前をすべて読めるかどうかは全く自信がない。
キラキラした名前は、他にない、その子だけのといった「オンリーワン」思考が非常に強いそうだが、もうひとつはその時代にもとめられているものを潜在的につける傾向があるという。
例えば、第二次世界大戦中ならば、勝利(かつとし)勝(まさる)や剛(つよし)といった戦争勝利を祈願する思いがあったのに対し、戦後すぐでは富や豊といった物資不足のない世の中を夢見た名前が多いという。
その意味では、今の日本には愛や夢や希望がないということになる。それはそれで怖い話だ。
さて、イタリアをはじめとするキリスト教の国では、実は名前のバリエーションはかなり少なく、基本はキリスト12使徒や聖人の名前で決まりだ。
だから携帯のアドレス帳には、相当数のアンドレアやシモーネ、フィリッポ、セバスティアーノなどがずらりと並ぶ。
もちろん、漢字があるわけでもないので、おじいちゃんの名前が何度も繰り返されるのも当たり前だし、電話がかかってきても電波が悪いと「どのシモーネ?」という確認が必要だったりする。
キラキラネームの存在の余地がないのだ。
それでも欧米ではファーストネーム(名)で呼び合う。一方不思議なことに日本では幼少時代を省けば、少なくとも公の場では苗字で呼び合うことがほとんどだ。会社に何人加藤さんや佐藤さん、田中さんがいようが、苗字(セカンドネーム)で呼び合う。
別にキラキラネームを揶揄するつもりは到底ないんだけど、よほどライフスタイルが欧米化しない限り、大人になったら結局無意味なような…。表札とかどうするんだろうといらぬ心配をしてしまう。
ちなみに私は画数の多い苗字に加えて、これまた画数の多い名前をいただいている。学生時代、テストで最後まで鉛筆の音を教室に響かせていた。
皆がシーンと問題文を読んでいる時に、ふとしたことで自分だけ名前を書いていると気づいた時のショックは意外と大きかった…。
そういう地味なところで、名付け時の親のエゴを恨む時があるわけだ。
それではまた近々。
A Prestissimo!